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2010年1月5日(火)に 愛知教育大学学術情報リポジトリ は正式公開1周年を迎えることが できました。
日頃より,リポジトリをご支援くださっている皆様に心より御礼申し上げます。

正式公開1周年記念として,本学の附属図書館長であり,また本学の理事でもある折出先生に インタビューを行いました。
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↑附属図書館長 折出先生


折出先生プロフィールは
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研究者総覧(日本語)




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↑インタビューの様子です

折出先生インタビュー 2010年 1月 8日(金) 於:役員会議室

■ 研究課題について ~生活指導とは~

インタビュアー: このたび,リポジトリが一周年を迎えたということで,館長である折出先生に インタビューさせていただきます。まず最初に先生の研究課題についてお教えください。

折出先生: 専攻は教育学で,その中でも教育方法学という分野で仕事をしています。 さらに絞りますと,子どもたち一人一人の自立や仲間関係,集団のあり方,そうしたことを中心にした 「生活指導」という分野を学生の頃から手がけています。
 一般には生活指導というと,校則を守らせるとか服装指導といった管理的な教育のようにとらえられがちです。 やる気を起こしたり,仲間意識を育てたり,さらには価値観を高めたり,そうしたことを教育学の言葉で 人格形成機能といいますが,子どもたちの日常,話し合い,作業への取り組みの中で,そうした人格形成機能を どう指導として生かしていったらいいかというのが本来の生活指導です。どうしても現場では,目の前の子どもたちを いかに管理して問題を起こさないようにするかということになってしまうために,現象的には締め付けや取締りが 前面に出てしまうことが残念ながらあるのですが,全国の小中学校あるいは高等学校の先生方全てがそうではなくて, 子どもたちを尊重して,子どもたちの自主性や集団としての自律性を重んじた実践をされている例もたくさん あります。

■ 愛知は管理教育?

折出先生: 愛知では1980年代から色々な事件をきっかけに「型にはめる教育」が根強くあると, 耳にされたことがあるかと思います。管理的な色彩の強い教育ということでメディアにとりあげられたいきさつも過去にありました。 でもそれはメディアが一方的に特徴づけたことで,愛知の県内の実践も非常に多様で,本来の生活指導の視点に沿った 学級づくりや学校づくりをやろうという先生方もたくさんおられます。

 また生活指導というのは学校だけのことではなく,地域の子ども会活動や,お父さん,お母さんたちが自発的に 子どもをサポートする取り組みの中にもあります。最近目立っているのは「おやじの会」で, その中で子どものことや学校のことを話し合われて,子どもたちが自主的に行う学年行事,生徒会活動などに, お父さんたちが出かけていって,力になれることはないかということで学校に関わっていかれています。 また学校はそういったお父さん,お母さんたちを受け入れられるように地域に開いていく,というように 非常にいい雰囲気で学校づくりが進んでいるところが県内にもあります。範囲を広げれば長野県では地域に 根付いた学校づくりをされています。そういう活動の中に含まれる実践の意味づけ,あるいは実践そのもの をどのように学術的に検証していくかという時に,生活指導という理論的な立場でやってきました。

インタビュアー: 愛知が管理教育というのは耳にしたことがありますが, そうではないのですね。

折出先生: 確かにそういう時期はありました。問題を未然に防ぐために校則の指導を徹底したりと いうことが行われてきたことは事実です。そして生活指導という名の下にそういった実態があることも事実です。 ですが,その立場にあってさえも,それは本校の生徒らしい,しっかりとした振る舞いや学習への取り組みを して欲しいといった,教育する側からの要求があるわけです。教育者の側の要求がどのように子どもの成長や 自主性につながっていくか,またはつながるように教育活動を展開していったらいいかという意味で,生活指導は 実証科学としてのせていけることのできる分野です。ところが現場的にはどうしても勘やコツでやってしまいます。 良くない例ですけれども,怒鳴れば恐れをなして子どもたちが静かになる,それが生活指導だと思ってしまうところが, あえて過去形でいいますと,あったのです。
 それが20年前くらいから,子どもたちとつながるときの指導のあり方を,教科の授業と匹敵するくらいの重みをもって, 教員養成でカリキュラムをたてて教職を志望する学生を育てなさい,ということでおよそ20年前に教員免許法が改正され, 教職科目の中に科目名としては「生徒指導」が必修化されました。

■ 20年間の変化

インタビュアー: 生活指導という言葉から受ける印象は管理的ですが,まったく逆のことのようですね。

折出先生: 子どもたちの人格形成において,知識や技能ではなく,一緒にやる中で子どもが変わっていくことは たくさんありますよね。人間形成という点からみると,学習指導に対して生活指導のほうが裾野は広いし, 家庭の中にもあります。家庭の親御さんが子どもたちに対して,時にはしかったり,時には支えてあげたり, 時には抱きとめてあげたり,いちいちそうは意識しませんが,みな生活指導なのです。 教師も子どもに対して時には厳しい要求もしますが,フランクな人間関係を取り結んだりもします。 ただ専門家なわけですから,お母さんお父さんの振る舞いとは違って,その中で子どもに何が育って ほしいか,何を育てたいかという教育目的が必要ですが,それが生活指導なのです。
 ところが学校というのはどうしても教科中心の教育機関で,我が愛知教育大学も伝統的に教科研究, 教科教育が中心です。が,いじめ問題や,不登校が言われだした1980年代くらいから, もっと日常的な子どもとのつながりや子どもたちの人間関係を育てるという意味での生活指導, 教育行政の用語では「生徒指導」がクローズアップされてきているわけです。 戦後ずっと学校が,教科指導や学習指導にウェイトをおいてきて学力を競い合わせたり, 優劣をつけたりしてきたことに対して「勉強ばかりではとても辛いよ」とか「そのことばかりで自分たちが評価されるの では学校に行き辛いよ」というような声が,いじめ問題や不登校といった形で現れ, 大人に届いて,ようやく教師を育てる上でも生活指導的なものも大事にしましょうということになりました。 つまり,子どもたちが自分たちの苦しみを,いじめや不登校で表さなければ,一般論として, 教育に携わる大人や教育行政の関係者はそれを受け止めなかった,ということですね。 大雑把にいえば,これがこの20年の変化です。 

■ 研究のきっかけ ~一冊の本との出合い~

インタビュアー: この研究をはじめられたのは変化の始まる20年より,もっと前からですね。 きっかけをお教えください。

折出先生: 私は広島大学教育学部の出身なのですが,大学3年生の頃からです。
 もう亡くなられた方なのですが,宮坂哲文さんという研究者がおられました。 日本では生活指導の分野を開拓してきた第一人者です。少しアルバイトしたお金が入って(笑),3年生だしもうそろそろ 卒論も考えなきゃいけないなという時に,本屋でこの方の著作である「生活指導の基礎理論」 を見つけました。 自分が持っていたお金で買えそうだったので,買って読むうちに引き込まれていったのです。
 宮坂さんは,人間関係やそういう活動に関わる人々のお互いの心に反映する教育作用に非常に早くから目を向けておられて, その視点で戦前から戦後にかけての教師の色々な実践,学級づくりや学校づくりといわれる実践を分析してこられました。 そこへアメリカの1950年代の頃のガイダンス論やグループ理論などの新しい理論をうまく結びつけて,日本独特の生活指導の学問分野を 構築してこられたのです。3年生という青年期の何か掴もうとしているときにそういう本に出会えたことが, 私にとって転機でした。

図書の紹介:
book 宮坂哲文著「生活指導の基礎理論」誠信書房 (1962)
 (NACSIS Webcatで検索)

折出先生: 後で分かってきたのですが,宮坂さんにはたくさんの著作がありました。 たくさんの実践を引用しながらそれを理論づけていかれるんですが,書いていることはすごく鋭いのに, 文章がとても優しいのです。たとえ,ある教師の指導が誤っている場合でも,それは子ども観のこういうと ころにこういう一面性があったからではないか,なぜそうなったかということは当の教師個人の責任だけではない, 学校体制のあり方や政策的にもこうだったと,教師を見る目線も暖かい感じがしたのですね。 自分で汗して得た大枚で買ったいくつかの図書の中でもズシリときた専門書でした。

インタビュアー: 図書館員としては1冊の本が先生の人生の転機となったということは非常にうれしいです。

折出先生: そうですね。本との出会いというのはあると思います。卒論の時に学生たちに色々な本を紹介しますが, 表情を見ていてピンときていないようだったら,時間をとってあげて,私が紹介した以外にもまだあるから探し回ってごらんよ, と言いますね。必ず出会いがあるはずなのです。大学2,3年生の頃に,色々な書物をめぐって一種の精神的な旅をするといいますか, そういう時期が必要なのではないでしょうか。

■もう一冊の図書:ヘーゲルの「精神現象学」

インタビュアー: そのようなきっかけではじめられて,今に至るまでずっとこの課題で続けてこられたのですね。

折出先生: もう1冊学生時代に出会った本があるのですよ。卒論に取り組むにあたって当時の指導教員の先生から, ドイツの哲学者であるヘーゲルのまとめた「精神現象学」という世界でも有名な大著を渡されました。 樫山欽四郎さんによる翻訳書です。

図書の紹介:
book ヘーゲル著 樫山欽四郎訳「精神現象学」河出書房新社 (1972)
 (NACSIS Webcatで検索)

折出先生: このヘーゲルの哲学書の翻訳は難しかったけれども,未熟な私にとっても 文章に暖かみがあったのです。ヘーゲルの精神現象学というのは,世界史をギリシア時代から辿っていって18・19世紀 に至るまで発展してきた世界精神の歩みをあとづけた物語的な哲学書です。大事なことは,色々な矛盾や葛藤があり ながら人類は新たな文化の営みを生み出してきていて,個人史もまた同じようなものがある,ということです。 個人史と世界史と民族史を縄をなうようにクロスしながら展開している書物で,未だに色々な研究者が挑んでいるほどの 大著ですが,分からないなりに読んだ中で,人が生きていく上でも矛盾や葛藤ということが,実は次に成長していく バネになるんだということが,ビビッときたのです。それと宮坂さんの子どもを見る目線,実践の中で子どもとつながろ うとして拒否されたりして悪戦苦闘していく教師を見る共感的な暖かい目線というのが,何故か私の中で繋がったのですね。 結局,卒論はヘーゲルの精神現象学をもとにして書きました。学生にはしっかり書けというのですが,自分では分量も あまり書けずに苦労したのですけど(笑)。

■生活指導研究を続けてきた理由
   ~目をそらしてはいけないという思い~

折出先生: 以後,愛知教育大学で勤めることとなり,こちらの地域の学校にはいらせてもらうようになりました。 その中で,学校内で様々な矛盾やぶつかりあいが絶えず起きているけれども必ずそれは次に高まっていくテコになるはず, ではそのテコになるものは何であるか,どうしたらそれが本当に有効なテコとして活かされるような教育実践に 繋がっていくか―,それを実証的に示すのが,縁があって教員養成の教職関係講座の一教員としていただいた 自分の務めかなという思いが強まってきました。そうしたときに1990年代のひとつの大きな出来事 として愛知県西尾市で重大な事件(「中学2年生のいじめ・自殺事件」)が起きて,この調査にも行きました。そういうことが転機になって, この時代は何が起きても不思議ではない時代ですから,目をそらしてはいけないという思いでやってきたことが, 生活指導と縁を切らなかったことになってるのかなと思います。

 そんなに大それた理想があったわけではありません。 生活指導というのはセオリーが明確にないですから。国語教育論とか数学教育論のように体系だったものがあって, そのもとで個々の先生の実践を評価したり分析したり,外国の論文などを読んで紹介したり,というのは比較的取り組みやすい と思うのですが,生活指導の場合,家庭生活,個人の発達特性,地域の風土,そこに浸透してくる その時々の教育や文化の政策というように子どもたちの生活そのものが非常に複雑なのです。 常に動いていく複合体なのです。宮坂さんもそういう風に言っているのですが,生き方というのは,そういった複合体の 中にあって,一人一人の子どもが一方では現実に向き合いながら,他方では自分の中の心と対話しながら, その両者が相互作用しながらその子その子の状況を切り開いていく,そういう歩みを築き上げていくことなのです。

■授業の中の生活指導

折出先生: それは授業とは別の世界にあるのではなくて,授業の中にもあります。例えば「ごんぎつね」を読むにしても, 個々の子どもが教材を読んでいく時には家庭に問題を抱えている子どもはそのプリズムをもって教材を読むわけです。 教師は「ごんぎつね」の指導書を参考にして,指導案をくんで発問したりしますが,例えば折出健二くんが(笑) 思わぬ発言をしてきて,そこで教師は立ち往生します。教師の解釈していた「ごん」とは違った 「ごん」を折出くんは読み込んできているのです。このような場面を含めて,教材というのは個々の子どもにとって, まさに生き方を育てる作用,人格形成機能をもっているのです。
 ですからそれは授業の中での生活指導として見ていかなければなりません。 それをややもすると,教科の何を教えるかの側からばかり教師は見て,それがどう定着したか, 逆にどれだけ定着しなかったか,つまり,できるできないの世界になってしまうのですよね。 そうではなく,宮坂さんの説によれば,子どもは教材によって今までの経験をどう見つめ直したか, あるいはどのような感動を覚えたか,仲間の発言にどう共感できたか,という従来の教科の教材をどう教えるかだけの 側から見たのとは異なった学級の世界がでてくるわけです。それを明らかにして初めて学級という教育が成り立つのです。 だから,彼の提唱する生活指導というのは欠かすことのできない教育の基盤であり,教育が生み出し ていく成果でもあるのです。

■東ニイイ実践アレバ...

折出先生: そうすると,校則や取り締まりというのは,それに反するように感じられますよね。 ですが,それは決してただ単に間違っているとか管理主義だから誤っているといって 切り捨てるのではありません。その校則指導にのめり込まざるをえない教師たちも,本来であれば現状を 良くしていきたいと思っているからやるわけです。 いちいち校則の締め付けや取締りをされなくても,生徒たちが自分たちから動いていくようになるには どうすればよいか,というのが分かればそういう実践が広がっていくはずです。その検証を優れた実践や 全国の公表されている実践レポートをもとにしながら,帰納法的に理論を引き出すのが 宮坂さんが追求してきた生活指導の研究方法なのです。
 それを私も学びたいとずっとどこかで思い続けているものですから,西尾の事件の時には 仲間とグループを作って調査にも行きましたし,ここにこういういい実践があるよと聞けば,宮沢賢治 ではないですけれども(笑)東へ西へ,フィールドに行き,現場の教師と話をして,そう簡単に理論化が できるものではないですが,そこから何かを引き出してくるのです。
 どれだけ問題行動を重ねていても矛盾や葛藤の中にその子の固有の生き方がある,生き方は 固定したものではなく変わっていく,また変わっていくからその子固有の生き方になる― そこを教師は見ながら,この教材ではどう反応するかな,この活動ではどうかなというように 投げかけていくのが教育の独自性で,あるまとまった型にはまった人間を育てることではない と「生活指導の基礎理論」でも書いておられます。

インタビュアー: 個によりそう,という視点なのですね。

折出先生: それが強かったと思います。もちろん集団や仲間ということも重要視されていましたけれども, 宮坂さんの立場ははじめに集団ありきではないのです。個が個として自立しあわないと本当の仲間はできないし, 個が個として自立しあえるということはお互いの悩みや葛藤を出し合える学級であらねばならないし, またそのような許容的な雰囲気の学級を作ることは担任である教師の専門性によるのだということです。
 私も共感することが多かったですね。これだけは先生から薦められた本ではなく,自分で見つけた本です。 生活指導ってなんだろうなあと読むうちに,これだ!と思って買い求めて,繰り返し繰り返し読みました。

インタビュアー: まさに運命の出会いですね。

折出先生: まあ,そこまではいかないでしょうが(笑)。でもおっしゃるとおり, 1冊の本との出会いというのは偶然なのですけど,大きいと思いますよ。

■ リポジトリに掲載した論文から

インタビュアー: リポジトリに提供いただいた論文から,内容を紹介していただけますか。

折出先生: 1994年の"新学力観の批判"と,2001年の"「学級崩壊」問題の教育学的検討"は私にとっては 対になる仕事です。


折出先生: 簡単にいいますと,新学力観というのは1990年代から導入されて,大きな学力観の転換となりました。 関心や意欲などの心の持ち方も学力の要素なので評価します,という考え方です。そのような学力観の転換が 何を意味するのかを分析したのがこの論文です。それが小中学校,高等学校にまで導入されて広がっていくのと 並行するかのように小学校高学年からの学級崩壊や,中学校での荒れや対教師暴力が,愛知だけでなく 全国的に広がっていくわけです。そこには何か相関関係があるのではないかというのが,90年代以降の 私の一研究者としての問題意識です。
 「学級崩壊」問題というのが,ただ単に子どもの質が悪くなったとか, 教師の指導ができていないからとか,あるいは家庭のしつけができていないとか,といった現象的な問題ではなくて, 学級崩壊または荒れといわれるようなすさみ方を子どもたちが呈さずにはおれないような変化が何かがあるのでは ないかということ,それを検証していかないことには一方的な子どもの批判になるか,あるいは教師批判か, あるいは家庭の教育力の低下か,つまりどこかに責任をなすりつけあうようなことになります。 これでは本当の意味での日本の教育の改革につながらないのではないか,というのがあって, 新学力観というものを批判的に検討しながらまとめたのです。

 リポジトリのいいところとして,アクセスがどれだけあったかの情報が毎月1回配信されますよね。 この論文には色々な未熟さもあるのですが,読者が結構アクセスしてくださっていて,ありがたいなと思います。 この二つの論文をベースにして単著にまとめることができました。この論文はそういう時代背景の中であったから こそ書けた論文だと思いますし,この仕事があったから一つの単著がまとまったという点で忘れがたい論文です。

図書の紹介:
photo 折出健二著「変革期の教育と弁証法」創風社 (2001)
 (NACSIS Webcatで検索)

折出先生: タイトルは色々と変わっていますが,本当に圧縮した言い方をすれば「子どもたちがのびのびと生きていくような 生き方を引き出し,支えられる学校教育とはどうすればいいのか,また日常の学級経営というのはどうあればいいのか。」 というのが中心となる関心テーマです。

■ 教育学研究者の役割とは

折出先生: いろいろとメディアで取り沙汰されたり,少年事件がワイドショーなどで取り上げられたりしますが,現象に 目を奪われないで,必ずその裏で起きているのが何かを解明していくというのが,わたしたち教育学研究者というものの役割です。 メディアやワイドショーで言っていることと同じようなことを言っているのでは研究者の仕事のほとんどの部分は 意味をなさなくなると思っています。
 はじめに述べた宮坂さんの視点がやはりそこなのですよ。いつも子どもたちは内部で 今の現実を乗り越えようとして渦巻いています。何がどう渦巻いているか,何に向かって子どもがそれを発動 しようとしているかは個々の教師の実践や,色々な子どもたちの活動を丁寧に洗い出していかないと解明できません。 研究者,あるいは教育学者といわれる人たちがはじめにこうありきとみてしまうのも誤りだし,現象だけをとらえてこうだと 決めつけてしまうのも誤りです。
 この意味で,全く関係ないかにみえるヘーゲルの哲学がもっている内部的な矛盾や葛藤が 必ず次への高まりを生み出していくというその目線が,宮坂さんの生活指導研究の中にもあるのではないかなと思います。 誰もそういうことは言っていないので,これは私の大仮説なのですが,生涯かけてやっていきたいと思います。

■研究情報の発信について

インタビュアー: リポジトリや研究者総覧での研究成果発信について,研究者の立場でどう思われますか。

折出先生: 構える必要はないのですが,研究者の仕事というのは公共性を持っていると思います。 それは自分の仕事を公開するということ,もうひとつは成果を学問的になんらかの相互批判の場に のせていくということ,3つ目にはその研究成果を共同で利用してもらうということです。 しかも私たちは大学の教員として国からの交付金や学生の納付金によって支えられているわけです。 どのような研究をし,どのような問題関心をもって,日々の教育や研究に取り組んでいるかは, 多様であっていいし,その自由さは大学である以上,しっかりと保証されないといけないと思います。 であればこそ,こつこつと研究していった仕事の成果を研究報告や専門雑誌の論文や学会での発表として 公開していくことは,研究者として生きていく上で避けて通れない役割なのではないかなと思います。
 私のような教育方法学的な分野ではフィールドに出かけていったり,外国の最近の動向をつかんだり, 場合によっては外国に行って交流したりします。その全ては消化しきれないかもしれませんが, その中から刺激を受けたことを自分の言葉で,学会であれば学会の仲間の人に向かって,それから論文を通して 不特定の読者に公開をしていくということは必要なことだと思います。 そういった意味で,本学ではリポジトリという形でスタートしてきてちょうど一年になるわけですが, そういうツールを確立してきたというのはすごく大きいと思います。

■ 出会いを待つ書物たち

インタビュアー: 本日のお話の中で本との出会いの話がありましたが,最後に愛知教育大学の附属図書館は これからどうしていくべきかお聞かせください。

折出先生: どんどんデジタル化されていく可能性はあるのですが,紙媒体としての資料の保存もしっかりしていく必要が あります。せまい意味の教科教育や学習指導の資料に絞らず,さすが愛知教育大学の図書館だな,といわれるような 幅広い資料や文献の所蔵に努めていけたら,というのが一つです。 それから学内もしくは学外の人も含めて来館してくださるのを待つ図書館ではなくて,足を向けたくなるような図書館に していくことが必要です。はじめにお話した私の学生時代では広島市内のある本屋さんで一冊の本との出会いが ありましたけれども,本学の場合,開架式をとっているわけですから,図書館の中で起こるといいですね。 レポートを書かないといけないからとか,卒論があるからとかではなく,もうひとつ前の段階で, 何気なくフロアをまわっているうちにある本に目がとまって,そのタイトルなり著者なりにひかれてパラパラと めくるうちに横の椅子に座って読み込んでしまったり,それを借り出したりと,来館する学生たちの 心に灯をともすような,そのような出会いがある図書館であって欲しいです。

 もちろんそのためにはすぐ学生が手に取ってくれなくてもいいから,現代の先端の文化を確保できるような文献を 予算の許す限り取り揃えていく必要があるし,学生のニーズに応えるような文献の整備もいると思うのです。 専門書ではなく一般市民向けの著作の中でも,学生たちが教育や文化や自分の人生を考える上で良いような本は できるだけ揃えて,一冊の本との出会いが,図書館の2Fのフロアでも3Fのフロアでもどの分野でも 起こりうるようにする必要があります。書物たちそれぞれが出会いを待っているわけですよ。 誰がどういう場面で書物と出会って引き込まれていくか,全く偶然の世界なのですが,その偶然を 愛知教育大学の図書館は用意していますよと,そういうスペースとして位置づいていくといいのではないかと思います。

 もちろんレポートや論文をまとめるための文献資料の検索ということも大きいのですが, 学生たちにとってそれだけにとどまらず,自分の中に抱えている, 生きあぐねている,自立しあぐねている,自分の現在というものと,ある書物との出会い,対話が生まれる 図書館,そういうのができればいいなと思います。


(インタビュー・まとめ)
 愛知教育大学情報図書課 情報サービス係主任 古田



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