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2011年1月5日(水)に 愛知教育大学学術情報リポジトリ は正式公開2周年を迎えることが できました。
日頃より,リポジトリをご支援くださっている皆様に心より御礼申し上げます。

正式公開2周年記念として,著書『江戸後期の思想空間』(ぺりかん社刊)で第32回角川源義賞を受賞するなど, ご活躍の社会科教育講座の前田勉教授にインタビューを行いました。

 【PR】 2011年3月1日(火)第2回愛教大アカデミックカフェに前田教授が登場!「江戸時代の読書討論会」を分かりやすく解説してくださいます。 前田教授の話にご関心がございましたら是非お越し下さい!!

  →→終了しました。ご来場の皆様,ありがとうございました。


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↑社会科教育 前田先生


前田先生プロフィールは
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研究者総覧(日本語)




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↑インタビューの様子です

前田先生インタビュー  2011年 1月27日(木)
               於:附属図書館事務室

■研究分野について

インタビュアー: まず最初に先生の研究分野について教えてください。

前田先生: 江戸時代の思想史を勉強しています。思想の中にも前の時代から次の時代へと発展の流れがあるのですが, 江戸時代全体を自分自身の見通しをもってストーリーを作っていくというのが課題です。 私自身は大きく3つの問題意識をもって通史を書こうと考えています。1つめは江戸時代の主流となる儒学です。 2つめは国学を中心とした天皇の問題です。3つめは教育に関係するのですが,思想の起こってくる「場」です。

 1つめの儒学が私が思想史をやろうとしたきっかけでもあります。 大学でどの研究室に入るか訊かれた時に,私自身は国史をやりたくて,国史の研究室に行ったのですが, そこでこういうことをやりますと農村の古文書を見せられました。それには興味が持てなかったのですね。 というのも小学校から歴史は伝記,人物が中心であるというイメージを持っていて, ある人物がどういうことを思っていたのか,何を考えていたのか,ということに興味があったのです。 ところが農村の古文書にはお金のことばかりが書いてあったのですよ。
 東北大学には日本思想史という講座があって,そこではまさにそのような研究をやっていることが分かり, 学部の1年生頃から思想史をやりたいと思うようになりました。その後,自分で勉強していく中で, 丸山眞男の『日本政治思想史研究』という本を読み,こういうことがやりたいと思いました。 それはまさに江戸から明治にかけての思想の歴史を非常に明快なストーリーをもって全体を見通したもので, 堅固に実証的なものでした。これが彼の30才前の仕事であると後から知って愕然としたのですが, その時には知りませんでしたね。さらに3年生の時に一生の恩師である源了圓先生が東北大学に移ってこられて, 儒学を中心とした講義をされました。それはまさに偶然の出会いだったのですが,授業で一生懸命ノートをとりながら, こういう勉強がしたいと思ったのです。それ以来,儒学を勉強するようになりました。 後から考えるとそれは江戸時代全体を考える上で「とっかかり」として大変良かったと思います。

■ストーリー1 儒学 ~軍事国家の中の儒学の役割~

前田先生: まず儒学ですが,私自身のストーリーとして,なぜ江戸時代の儒学が中国や朝鮮とは異なるのかということが大きな問題です。 儒学は中国や朝鮮では大きな影響力をもっているのですが,日本では必ずしもそうではありませんでした。 何故かというと中国や朝鮮では科挙があり,儒学の勉強をして官僚になることができたためです。世襲制の日本ではそれがなく, 勉強したからといって出世できる可能性がありません。日本は武士すなわち軍人が支配しており, 儒学は非常にマイナーな存在でした。そのマイナーな存在が兵営国家の中でどのような意味をもつのかが大きなテーマになっています。 江戸時代の最初から明治にかけての軍事国家の中で,儒学の役割がどのような展開をするのかを書いたのが,私自身の最初の著作です。 兵営国家とはgarrison stateといって軍事が政治や経済の全てに優先する国家,暴力が支配する国家,一方的な命令服従の国家です。 農民や武士の下層の人々は抑圧される国家です。兵学が兵営国家を支える思想であり,それに儒学がどうぶつかっていくのか, 何が対立し,儒学がどう変容して,兵学と癒着していくのか,それが一つめのストーリーです。

■ストーリー2 国学 ~天皇・日本という観念~

前田先生: 2番目の問題は国学です。幕末を考えれば分かるのですが,尊皇攘夷といって, 天皇が非常に大きい意味を持っていました。 しかも明治国家では天皇を中心とする国家ができました。しかし江戸時代の最初の頃は天皇の存在は限りなく小さく, ましてや農民や町人,武士にとっても非常に縁の遠い存在です。幕末と比べると大きな落差があります。 上層の人々は公家と知り合いだったかもしれませんが,普通の武士や農民にはおよそ縁がありませんでした。 もうひとつは日本という観念で,日本列島の人々が一つの集団であるという考え方が,天皇と結びついて生まれてきました。 この間に何があったのかというのが,国学あるいは神道についてのテーマです。

インタビュアー:  西洋の知識である蘭学が入ってきて,西洋と日本の違いが分かってきたこと, そしてペリー来航にうまく対処できない幕府に代わる新たな指導者が求められたからではないのですか?

前田先生: それもありますが,国内で天皇を持ち上げるような人々が現れてきたのです。 それはペリーが来航する前からなのです。一般的には対外的な危機の中で国内的なまとまりが生まれてきたり, 天皇という存在が大きくなってきたと理解されてきました。 ウェスタンインパクトと言われるように対外的な危機が国内に衝撃を与えたというのは分かりやすいのですが,もっと以前の, 明らかに太平の時代である17世紀後半から18世紀初めには,そういった人々がもう現れてきているのです。 そのような時代に現れてきたのは何故かというのが神道・国学の問題です。

■ストーリー3 思想のおこる「場」 ~会読~

前田先生: 3番目の問題は,儒学や国学のような様々な思想が,どういう場所から生まれてきたのか,ということです。 先ほど説明したように,基本的にはそれを勉強したからといって官僚や政治家にはなれません。 それなのに,人々はどうしてそういうことをはじめたのか,ということです。 そのように考えていくと学校や教育という場面が非常に重要になってきます。

 学び合うという中に,閉塞した社会の中での憩いがあったのではないか,そのように考えて, 今回は「会読」というものに注目しました。


 「会読」は18世紀の初めに生まれてきた, 車座になって議論をしたり討論をしたりする場です。例えば,有名な解体新書ですが,その翻訳の時, 杉田玄白たちはABCも知らなかったのですが,彼らは前野良沢の家に集まり車座になって, この一語はどういう意味を持つのかということを議論したのです。これはすごいエネルギーです。 それは彼らにとって何の得になるわけでもありませんでした。 しかし彼らはこれは将来何かの役にたつはずだという強い意志をもっていたのです。 そういう議論の場が18世紀の中頃に現れてくるのです。解体新書だけではなく,別の人たちは万葉集でそのような議論を行いました。 万葉集も万葉仮名で書かれていて読めないのですが,それを読むというグループが生まれてきたのです。 そしてそれらは国学という運動となり,蘭学という運動となりました。儒学でもそのような場が生まれていました。 あえて難しい書物を読む,それは役にたたないのですが,一歩外に出れば世襲制の世の中にあって, 皆で討論する場が生まれてきたのです。会読は切磋琢磨しあうので教育の中でも役にたつということで, 藩校の学習方法にも取り入れられるようになりました。これは諸刃の剣でした。 車座になって討論すれば,できるできないがはっきりしますので,世襲制度にとっては甚だ不都合なのですが, 佐久間象山など,身分の低い人たちが頭角を現すようになったのです。

■学問で世襲制度を越える

前田先生: そして,対外的な危機の中で,尊皇や攘夷といった政治の問題が討論されるようになりました。 体制側からみればとんでもないことで,禁令されるわけですが,それは広がっていきました。 そして,会読では身分・藩を越えていたので,様々な人と人が結びついていきました。 坂本龍馬が勝海舟のところにいって議論をふっかけることができたわけです。しかし考えてみると, 土佐の下士が勝海舟のところに行って議論をするというようなことが,勝海舟も当たり前だと思っていたというのは不思議ですよね。 他にも水戸の弘道館のえらい人と吉田松陰が討論をするということがあったのです。 学問だから当たり前だという感覚が,幕末の彼らの中にすでにできあがっていたからこそ,このようなことができたのです。 世襲制度の世界で普通ではありえないことです。

インタビュアー:  学問が世襲制度を越える手段になったのですね。

前田先生: さらに藩主も一緒に議論しはじめる藩も出てきました。例えば佐賀藩です。 そこでは藩主に対して反対意見を言っても構いませんでした。 薩長土肥といいますが,肥前の大隈重信や江藤新平といった優秀な人々はそういうところで鍛えられ生まれてきたのです。 このような経験がなければ「公議輿論」,すなわち「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」という五箇条の御誓文なんていうものは, 生まれてこなかったでしょう。そういう意味でいうと「読書会」というのはまんざら捨てたものではないというのが私の考えです。

インタビュアー:  今も大学で行われていますよね。

前田先生: そうです。大学の「演習」という形態ですね。講義ではなく「ゼミナール」です。 中国や朝鮮では基本的にゼミナールという形式はありませんでした。中国の方にきくと,例えば論語もそうですが, 師曰く...というのは弟子がきいて先生が答えるということですので,そういう形の討論はあったということです。 ただ江戸時代の討論では先生は黙っているのです。クジで当番になる人を決めて,その人がある箇所について講義をして, 次の人が反対意見をいうという形式で,先生は見ているだけでした。そして次から次へと討論し, 最後に先生が批評をするというのが一つのパターンでした。「師曰く」で先生に頭を垂れて話を聞くのではなかったのです。 だからゼミなのです。東アジアの中では大変珍しいものでした。色々な先生に聞き回っているのですが, 中国御専門の先生に聞いても「会読」という形は中国にはなかった,と言います。 それが日本の中では何故起きたのかということですが, 皮肉なことに日本では学問をしても何の意味もなかったからなのです。

 ■会読から自由民権運動へ,そして会読の伝統の終わり

インタビュアー:  今までは学問をしても科挙のような制度が無かったので意味がなかった, それが会読という場ができて身分を越えられるようになった,ということですね。

前田先生: 中国や朝鮮では学問をすれば競争で勝てたのです。基本的に学問をすることは自分が立身出世することで, 討論するより自分が先生の言うことをきいて正解を暗記したほうが良いのです。討論しても試験に受かるわけではないのです。 だから一生懸命,先生の言うことを覚え込んで,家に帰って暗記する,それが彼らの学問でした。 それで出世していくのです。友達同士で切磋琢磨しても,途中までは良いかもしれませんが,最終的にはライバルですので, 意味がありません。それは学問が政治と結びついて立身出世していくルートが制度的に作られていたからなのです。 いろいろな人たちが学問によって出世できますので,それはある意味では平等です。 ところが日本は世襲制度ですので,学問をしても何の意味もありませんでした。 しかし,その中に自分自身を実現できる会読という場が生まれてきました。 その経験が「公議輿論」の起爆剤になったと思うのです。実際,明治になって,藩校で学んだ人を中心にして, 学習結社が各地に作られていきました。そこでは一生懸命西洋の政治や経済,法律の本をみんなで会読しあう, そこで彼らは憲法の草案を作り始める,それが「自由民権運動」です。 学習結社から政治的な結社,政党になっていき,自分たちの意見を政治に反映していこう, 議会をつくろうという動きになったのです。しかし会読の伝統はそこで終わってしまうのです。

インタビュアー:  それは何故でしょうか?

前田先生: 勉強したら出世できるルートが作られたからです。四民平等で自分達の才能を発揮できる場を作る, それが彼らの望みでした。 しかし,明治の中頃には,会読は皆で集まって試験勉強しましょうという場になってしまいました。 にわか勉強で試験前に分からないところを教えあうという場だったのです。 中国哲学では専門の人たちが書物を読むゼミは続いている, という人もいますが,民間の中にあって自分達が政治の話もしあうようなものとは,それらはちょっと違います。 制度化された会読になってしまったのですね。それは勉強すれば出世できるというルートの存在が前提になっていて, 利害を離れ,皆で集まって本を読んで楽しいね,という場ではなくなってしまったのです。

 思想というものはいつも裏と表があります。ある時代においては積極的な意味を持つものが, 次の時代になるとまた別の意味を持つようになってしまうということですね。

 ■今後の研究課題

前田先生: これからは,会読がどのような社会的な広がりをもっていたか, 自由民権運動の中ではどういう風に会読が行われたのか, またそれぞれの藩でどのような会読が行われたのかということを,実態的に明らかにしていきたいと思っています。 リポジトリに掲載した文献の金沢藩の明倫堂がケーススタディのひとつです。


インタビュアー:  藩の中でも盛んにおこなわれたところとそうでないところがあるようですね。 藩主が積極的だったかどうかも関係がありますか。

前田先生: 大きいですね。佐賀の鍋島藩は積極的でした。しかも強制して藩士たちを入学させた。金沢藩もそうでした。しかし,やる気がでるかというと,上のほうでボンクラだった人はやりたくないし, 下のほうの人たちはやったって何の意味があるのか,という話になってしまいます。 両方難しいですね。世襲制度の矛盾がはっきりしてしまうのですね。 自主的に集まる時には積極的な意味を持ちますが,強制されて討論しろとなると難しくなってしまいます。 それが成功したのは吉田松陰の松下村塾だと思います。そこでは松陰が先頭に立って様々な人に議論させました。 身分の低い人達もそこでは自分達が議論できました。そして,他藩の人たちと横に結びついていきました。 それが松下村塾のもつ大きな意味です。

インタビュアー:  それは藩がやるのではなく,個人でやったから良かったのですね。

前田先生: そうです。広瀬淡窓の咸宜園でも同じくそれをやりました。咸宜園は非常に優秀な人が集まって討論したのですが, 難しいのは勉強した時にどう評価するかでした。三奪法といって,入門時に身分・年令・学問を一切白紙にして, そこから競争させていって,そこまではいいのですが,貴方はよくできるようになったね, ということで等級をつけるわけです。等級をあげることを目標にしだすと, 皆が納得できるような客観的な基準が必要になります。そうすると暗記になってしまうのです。 学問的には向上していきますが,人材は生まれにくくなりました。吉田松陰のところではランクをつけることをしなかったので, より積極的なものができたのです。そのようにうまくいったけれども,それが逆の意味も持つような, 様々な事例が幕末の中で起こってきました。このように教育の場において,会読という場面から様々な物が見えてくるのです。

インタビュアー:  今の学校教育で悩んでいることと同じようなものがありますね。

前田先生: そうですね。これはこれで面白い問題ですし,先ほど言った何故天皇かということ,あるいは軍事の問題で 何故日本は明治以降,富国強兵をやって,そんなに軍事大国になってしまったのかということも大きな問題ですね。 そういうことを江戸時代から考えていくというのが私の研究です。

 ■思想研究の面白さ
 ~本居宣長はオタクでナルシスト!?~

インタビュアー:  先生にとって思想の面白さはどこにありますか?

前田先生: 先ほどは私の大きな問題関心から話してきましたが,思想は基本的には一人一人の内面的問題なのですよ。 例えば自著で本居宣長を取り上げました。 宣長は江戸時代の最高の知性だと思うのですが,この人は膨大な書物を書いていて,しかも文章が冗長で, 全体が見えず,自分がたまたま見えたところで宣長はこうだと言ってしまうくらい大きいのです。 つまり宣長をどうとらえるかが研究者にとっての試金石になってくるわけです。では私はどうとらえるかというと, 宣長が19歳の時に描いた地図をきっかけにすると面白いのではないかと思うのです。

参考資料:
book 本居宣長記念館編『本居宣長記念館名品図録』
本居宣長記念館, 1991
 (NACSIS Webcatで検索)

前田先生: これは架空の地図で,よく見ると全部地名が描いてあります。 端原氏という架空の人の系図まで書いて, 年号も自分の想像の年号を書いています。彼は松坂の商人の息子なのですが,この時は養子にやられて, 商人の見習いをやっているのですね。これは明らかに今の生活に対する逃避です。まさに妄想です。 さらに彼はこの時に日本地図も描いているのですが,それにも街道のひとつひとつの地名まで描いています。これは完全にオタクですよね。 そしてもう商売などやだと彼は飛び出してしまうのです。 その時,お母さんも偉かったのですが,これはもう駄目だと漢方のお医者さんにしたのです。 当時,中国の書を読んで薬を出すというのが基本で,勉強しなくてはなりません。そのようにして彼は生計をたてることになりました。 彼は松坂の小さな自宅で,昼間はお医者さんをやって,35歳から69歳までの間,古事記伝を書いたのです。 彼の部屋は中二階になっていて,階段があったのですが,自分が昇ったら誰も入ってこれないように階段をとってしまって, 古事記を注釈する仕事をしたのです。自分一人の小さな世界に閉じこもってそれをものすごいエネルギーと想像力とで作っていく, 私は19歳の時のオタクがそのまま大人になってしまったのではないかと思っています。

インタビュアー:  それが学問として認められたのですね。

前田先生: しかも,私が恐ろしいと思うのは,ここで考えられた古代の世界が後の人に, 大きな影響を与えることになったということです。 それが先ほど述べた天皇で,日本列島に住む一人一人の心と天皇の心を結びつけたのです。 小さな四畳半で考えていた天皇と自分自身が一体化する妄想の世界,それがある人々にとって生きる拠り所になっていき, 平田篤胤やその後継者に引き継がれていきました。そして「一君万民」という考え方で天皇を持ち上げていく大きな力になっていきました。 これが極限的につきつめられていくのが昭和前期で,天皇やお国のために命を落とすことが日本臣民の大きな目標になり, 師範学校出身の先生達はそれを小学校で教えていったのです。 それが考えられたのはこの四畳半なのですよ。

 さらに宣長は自画像を描いています。44歳の時の自画像,61歳の時の自画像を描いています。 これは当時一般的なことではありませんでした。しかも服装を自分で古代風に見えるようにデザインしているのです。 ものすごくナルシストだと思いませんか。しかも自画像に「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」 と書いています。宣長は桜が大好きで,大和心は桜だと言い出したのです。 もちろん,平安時代から花と言えば桜で,江戸の庶民たちも桜は大好きでした。でも日本人の心が桜だといったのは宣長が最初なのです。 その後,全国津々浦々の小学校に桜が植えられることになるわけです。 私たちは知らず知らずのうちにそういうものが当たり前だと刷り込まれていますが,宣長がこういう形で言い始めたのです。 他にも私達の感性,美的な感覚に,宣長が大きく影響を与えています。例えば「もののあはれ」というのは人の悲しみを 自分の悲しみとして共感する力ですが,これが日本人の心だと言い始めたのも宣長です。

 ■現代の自明は歴史的な形成物

インタビュアー: 何故それほど影響力があったのでしょうか。

前田先生: 閉塞した状況の中で,自分自身の心の拠り所を天皇や桜に見いだした人々, 抑圧され不条理な世の中で苦しみ・悲しみをいだいている人々が, 宣長に共感したのです。これこそが日本人なのだということに救いを見いだしたのです。 そのような人達が天皇を下から支えていく,そして明治になると,それを上から利用して,学校や軍隊やメディアを通して刷り込んでいく, ということが行われて,今私達が何気なく当たり前だと思っていることになってしまったのです。
 思想の歴史の面白さというのは, 今,私たちが当たり前だとか自明だと思っていることが歴史的な形成物であるということを明らかにすることです。 逆に言えばそれは変えることができるのです。 私達はそれが古代以来の,日本列島に住んでいる人々の常識だと思っていますが,一人のオタクが作った短い歴史のものなのです。 江戸時代の最初の人たちは,天皇なんて思っていない,抑圧された人々の救いの一つとして宣長が語り始めたことが, 江戸時代に天皇が浮上してくる一つの理由ではないかと考えています。 ですからそれを変えることもできるのです。思想の歴史の研究は別の選択肢を与えることでもあります。

インタビュアー:  宣長が商人をやらされていたら,あるいはこの人に商人の才覚があれば国学は生まれなかったかもしれませんね。

前田先生:  この時代に,商人の才覚がある人もでてきて,彼らなりの方向で身分秩序を打ち破っていくような新しい動きもあったのです。 これはすごくポジティブな精神を持った人たちでした。そういう人達には天皇は関係なく,積極的に外国と交わっていこうとしました。 これは福沢諭吉につながる路線だったと思っています。そういう方向で考えた人もいて,両方がせめぎあっているのが明治でした。 一方だけではうまくいかなかったでしょうね。

 ところで,この地図のような切り口で宣長をとらえることこそ,妄想だといわれることもあります。 しかし,テキストを読んでいて何かにぶつかった時に,自分なりの核を持つことが思想史の面白さでもあります。 いつも一緒にいてもその人が分かるわけではないですが,あるところでこの人はこういう人だと, 本質を掴んだという瞬間があると思います。私は残された資料からそれを掴めるのではないかと思っています。 それこそ,何百年も前の人で,残されたテキストしかない,そもそも他者を理解することなんてできるのか, という批判もありますが,できるだけその人に近づこうとしていくことが重要だと思います。

インタビュアー:  そのためにはその人物だけではなく,その当時の状況やあらゆることを考えなければなりませんね。それもまた面白いのでしょうね。

前田先生:  いや,それは面白くないんですよ(笑)。これは私の以前の仕事なのですが, 江戸時代の72人の伝記の出典を明らかにしようとする作業をしました。
図書の紹介:
book 原念斎著; 源了圓, 前田勉訳注
『先哲叢談』(東洋文庫 574)平凡社 , 1994
 (NACSIS Webcatで検索)

前田先生:  伝記自体,昔に書かれたもので,本当のことなのかどうかが分からない,いわば二次・三次史料で研究史料としては価値がない, と言われていたものです。それを,そこに書かれていることが本当のことなのかどうか,他の史料にあたって 出典を明らかにしようとする作業をしたのがこれです。

インタビュアー:  1行にひとつのペースで注釈として出典がついていますね。これは大変な作業ですが,見つかるとうれしいでしょうね。

前田先生:  見つかった時はうれしいのですが,逆に見つからないものもあるのですよ。 これは本がないとできない作業ですから,愛教大の図書館が役にたちました。こういった, 一つ一つ事実を明らかにしていくという作業が研究の基本になるのです。これは本当に気の遠くなるような作業です。 このような作業と先ほど言った着想が必要です。江戸時代の他の人物が分かった上で,宣長の個性が分かってきます。 本文の読み下しから初めて,何年に何があった,それは本当に正しいのか,これが勉強の基礎になるのですね。 これは後の人にとっても基礎になるでしょう。 これは図書館がそばにないとできない仕事でした。愛教大は明倫堂の史料があるし,和書もあります。 図書館の役目の一つは蔵書です。普通の人には役に立たないかもしれませんが,図書館がしなければ他はやりません。 私は東北大学附属図書館の狩野文庫で,公家文書などの整理の仕事もしていたことがあります。 そういう文化的なものを残すことが図書館にとって大事な仕事です。

 ■さいごに

インタビュアー:  そういった視点から,他に本学の図書館へのご意見はありますか?

前田先生:  最初に会読の話がでましたが,学生が集まって読書会が出来るようなスペースがあるといいですね。今はロビーでしかできませんよね。 それは図書館だけの仕事ではないかもしれませんが,ロビーの稼働率が高いのは,学内でそういった場所がないのだと思います。 教室でやればいいのかもしれませんが,周りに資料があったりという雰囲気が大事ですね。 そういう場を作ることが大事だと思います。

 それと図書の選書というのは,図書館の人にとって自分自身の力量が試されるものですよね。 昔は目録を作るのは図書館員が手書きでやっていましたし,分類も各大学で別々でした。しかし今はパソコンや, 情報にシフトしてしまっています。そういう意味で本を選ぶということは,唯一, 図書館の人が専門性を発揮できるところではないかと思います。教員が買うのは細かい専門書になってしまいますが, 学生にとっては専門的になりすぎてしまいます。今,図書館には専門書と一般書の間の入門書的なものがどれくらいあるでしょうか。 学生が利用できるような入門的なものを,是非収集していただきたいですね。


(インタビュー・まとめ)愛知教育大学情報図書課
   情報サービス係係長 古田, 目録情報係 稲葉
(写真)  目録情報係 加藤



愛知教育大学附属図書館